ざわざわと遠くで喧騒の音が聞こえる。
簡素なロッカーが並び、1卓のテーブルがあるだけのシンプルな待機室では一人の男が黙々と作業を続けている。
L字型の銃身、照準器が付いたスライド、グリップや引き金が付いたフレーム、弾層、リコイルスプリング、銃弾
コト、コト、コトと静かで硬質な音と共に一切の淀みの無い所作で拳銃が部品毎に分解されてテーブルの上に並べられていく。
そして部品の一つ一つを丹念に磨いて汚れを拭っていく。

男は名を柊と言い、ロードランナーの訓練生である。
そしてここは年に1,2度だけ開催されるトライアル訓練時にだけ使われる待機室であった。
このトライアル訓練は国境にある富士山の麓から樹海を通り、途中のチェックポイントを経て、山の中腹にあるゴールまで到達するという内容の競技になっている。
ハードな内容であるこのトライアルは訓練課程時の目標や腕試しとして実施され、普段は遭難者が出やすい為に立ち入り禁止である富士山を演習場として行われる。
その内容から参加は任意というか逆に一定以上の実力があると認められないと参加資格さえ貰えない程だが、
それだけにトライアルを突破したものは相当な実力者と一目置かれる事から腕試しに参加する者は毎回多い。
外から漏れ聞こえる喧騒も自らは参加しないもののトライアルの行方が気になる訓練生達が数多く見学している為である。

出番を待ちながら自身のコンセントレーションを高める為に身体にすっかり染み付いた銃の分解整備を行いながら、今回のトライアルのルート選定を頭の中で反芻する。
今回のトライアルでは等高線と河川だけが描かれたシンプルな地図と航空写真が配付されており、参加者達は皆それらを手掛かりとしてルート選定を行う事になっている。
少しずつ銃の整備が終わり、テーブルの上で冷たい光沢を放つ部品が一つずつ組み上げられていく。
自らが駆け抜ける事になる道筋を1つずつ選定しながら柊は時が訪れるのを静かに待ち続ける…。


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ゴオゥゥ
風切り音が鳴り、緑の風景は現れては次々に後方へと流れていく。
一定のペースで繰り返される自身の呼気が聞こえ、足が落ち葉を踏む時になる音がカサカサと聞こえる。
そして落ち葉に覆われた焦げ茶色の地面は傾斜と共に遥か先まで続いており、ジャングルや密林の如く生い茂った樹木や茂みの中に消えている。

鍛え上げた2本の足が身体を前へ前へと斜面を押し上げる。
自身の身体の隅々を指先に到るまで意識し、重心を整え、反復練習で身に付けた走行フォームで脚力を走力へと転換する。

疾走する柊によって撹拌された樹海の空気は静から動へと塗り替えられてゆく。
そして柊は額に流れる汗もそのままに疾走を続けながらも見事な集中力で自身が進むべきルートを次々と見出し、ルートの再選定を繰り返して行く。

何と言っても樹海である。
一瞬の油断が道を見失う事に繋がりかねず、実際には遭難者に備えた歴戦の偵察兵達が本部で待機している事さえも、今この瞬間は柊の頭の中から除外されていた。


今を遡る事、丁度2年前。
ロードランナーを目指してその門戸を叩いたときの彼は自分に全く自信が持てなかった。
取り立てて特技と言えるものも無く、争いごとが好きでは無かった性格も災いして就職戦争には悉く敗退し、ロードランナー訓練校に通う事になったのである。
変化に乏しく、諦観と灰色に満ちた日常生活がまた始まると考えていた彼の甘い予想は入校初日からあっさりと叩き壊される事となった。

性格上、競争があるスポーツにも関心を持てず、それまで殆ど身を入れて身体を動かした事が無かった彼はその日も何時もの如く、惰性で程々に訓練メニューをこなそうとした。
そして一発で教官に見抜かれ、みっちりとワンツーマンでしごかれる事になったのである。
良く日焼けした褐色の肌にベレー帽の端から見えるクセッ毛の銀髪が特徴的なその教官の名前はランディ=ゴトー。これまでに数多くのヒヨコ達をFOへと鍛えてきたベテラン教官である。
その卓越した洞察力によって、まるで読心術でも使えるんじゃないか?と疑うほどの精度でもって、柊の全力を引き出すトレーニングメニューが課された。
日頃の運動不足が祟り、訓練でヘロヘロになった柊が教官に言われるがままに訪れた場所は食堂であった。
そこで出された何の変哲も無いカレーライスを一口食べたときの衝撃を柊は今も色鮮やかに思い出す事が出来る。
それは全力を出し切った者に対してのみ与えられる美味であり、彼がその生涯で始めて味わったはずの、しかしどこか懐かしい達成感の味であった。
この日の出来事を境に彼の行動は一変した。様々な事に全力で挑み、失敗と成功を繰り返しながら1つずつゆっくりと確実に出来る事を増やしていったのである。


そして今、柊はここ富士の樹海にいた。
僅かな物音ともに緑の海原をかき分け、迷彩服に風をはらませながら、己が見出した航路に沿って全力で疾走しているのである。

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少しずつ傾斜が緩くなり、それに従うように頭上に生い茂った樹木の枝葉の隙間からの木漏れ日の量が減る。
より薄暗くなった森林の空気は辺りをひんやりと冷やし、足元の落ち葉も湿り気を帯びて足音を静かに受け止める。
辺りの様相の変化に気が付いた柊はそろそろチェックポイント付近に辿り着いたと当たりを付けて走る速度を緩め、慎重に歩を進め始める。

チェックポイントには多数の中堅の偵察兵やFOが監視者として展開し、監視の目を光らせている。
この監視エリアを無事に突破する事が本試験の必須条件であり、最難関ポイントの1つと言える。
これまでは己との戦いだったが、ここから先は監視者と自分の腕比べである。

自然と息を潜め、気配を殺す。

”隠密行動と偵察は一枚のコインの裏表”

教官の言葉を思い出しながら、注意深く地面に視線を走らせる柊。

”自分が隠れるときも、偵察するときの視点・考え方を忘れるな”

やっぱりあった!何度か人が通った痕跡だ。

監視者の巡回ルートを確認し、その死角となるであろう獣道を見つけ、自身の痕跡をなるべく残さないように注意を払いながら奥へと進み始める。

ある時は樹木の影に隠れ、またある時は身を潜めた茂みの側を偵察兵が通り過ぎるのを息を止めてやり過ごし、双眼鏡を構えたFOの監視を潜り抜ける。
それはさながら銃弾が飛ばない銃撃戦である。視線という名の射線から遮蔽物を駆使して身を守り、動から静へ、静から動へ。
音を立てないように注意を重ね、奥へ奥へと進む。
滝の様に流れていたはずの汗は何時しか止まり、汗を吸った野戦服のアンダーウェアがびっしょりと肌に貼り付き、体温を奪う。

徐々に偵察兵をやり過ごす頻度が増え、何度もルート変更を余儀なくされる。

そしてさらに奥地に進み、何度かヒヤリとする局面をやり過ごすに至って

…おかしい。

嫌な胸騒ぎを感じた柊は違和感の原因に考えを巡らせると、何時の間にか有力な進行ルートが当初の予測の半分にまで減っている事に気が付いた。
どうやら直接目視される事は無かったが、痕跡が見つかったのだろう。恐らく今頃は徐々に監視の網目が狭められているに違いない。

ガサリ。

不意に背後の茂みが揺れ、偵察兵が現れた。

ち、近い!

そう感じたのはどうやら柊だけでは無かった。
驚愕に目を大きく開きながら咄嗟にアサルトライフルを構えようとする偵察兵。
その瞬間には軍用ブーツに覆われた踵がアサルトライフルの銃口に迫る。
後ろ回し蹴りを繰り出しながら、柊はホルダーから拳銃を抜きとり、冷たい輝きを帯びた銃口を相手に押し付けた。
それは訓練によって染み付いた流れるような動作であった。
樹海に2発の銃声が鳴り響く。
どさりと地面に倒れる偵察兵。
柊に蹴り飛ばされた偵察兵の銃口の先にある樹木にはベッタリとペイント弾の染料が塗りたくられていた。

ふうと思わず安堵のため息を漏らした柊であったが、事態は逆により切迫したものになりつつあった。

今回の試験ではペイント弾を一発でも命中した人物はやられたものとみなす。
今、足元に倒れている偵察兵の人もそれでノーリアクションになっているのだが、これは自分にも当てはまる。
ペイント弾が少しでも身体に掠れば即時に失格なのである。
そして派手に鳴り響いた銃声は間も無く周囲の偵察兵やFOを招き寄せるだろう。
仮にこのまま1対多で銃撃戦をやっても結果は火を見るより明らかである。

どうする?ここまで場所が絞り込まれては例え隠れても人海戦術で直ぐに見つかってしまう。
かと言って直接戦うのは論外だ。
刻々と迫るリミットを意識しながら必死に対処法を検討するが焦りが思考を空回りさせる。
思わず項垂れた柊の目に入ったのは自身を支える鍛え抜いた2本の足であった。
その瞬間、柊は腹を括った。

これだ。この土壇場の状況を打破する切り札はこれしかない。

そして柊は一つの賭けに出る事を選んだ。
一度腹を括れば、柊の行動に迷いは無かった。
慌てずにルートを再検討し、幾つかある候補から最も険しい最短ルートを選びだし、引き絞られた矢が放たれたように全力疾走を開始した。

静粛性をかなぐり捨てたロードランナーの走力は目を見張る速度を叩きだし始める。
潜めていた息は次第にリズミカルな呼気へと変わり、騒々しい足音を立てる事も構わずに柊は樹海の中を駆け抜けていく。
騒音に気が付き、周囲から続々と集まってきた偵察兵やFOが追跡を開始する。
それには構わず柊は見出した1つの道筋を、前方を、ただ一心に見据えて真っ直ぐ前へと突き進む。
周囲は再び傾斜が強くなり、生い茂った樹木があちこちに根を張り、落ち葉は地面の凹凸を覆い隠す。
一歩でも踏み外せば転倒し、場合によっては大怪我を負いかねない悪路へと様相が変わり始める。
足場を見極め、迷い無く一歩を踏みこみ、身体を前へと押し上げる。
ロードランナーは絶妙なバランス感覚と強靭な足腰を活かして悪路を次々に走破していく。
落ち葉を舞い上げ、派手な痕跡を残しながら疾走するロードランナー。
やがて木々が途切れ、目に沁みるような青空が前方に広がる。
遂にランナーは追手が呆れる程の騒音と勢いで監視エリアを駆け抜けたのであった。

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富士山中腹のゴール地点。
山特有のひんやりと身が引き締まるような空気の中で柊は目の前に広がる風景に魅入っていた。

眼下には砂で出来た砂丘がまるで絹のような滑らかさで広大に広がる。
その広大な砂の海原を4つに切り分ける交易路
路が交わる中央には緑の輪に囲まれた蒼い蒼いオアシスが宝石のように輝き
それによりそうように宿場町が佇んでいた。